「世界に一つだけの花」だって努力はする
「世界に一つだけの花」という歌がある。Wikipediaをみると、「この歌の主題は、競争で一番になるよりも各々が持つ個性が大事だという一つの主張である」とあって、たぶんこういう受け取り方が一般的だろうと思う。大ヒット曲になったことからみて、多くの人の心を打ったのであろうし、そのメッセージは普遍的な価値を持つものなのだろう。私も大切なメッセージだと思う。
以上を前提としてだが、少しだけ、「ちょっと待て」といいたいことがある。この歌は罪作りだと思うところがある。
(山口)
この歌の歌詞には「ナンバー1にならなくてもいい もともと特別な only one」というくだりがある。この点に関して、Wikipediaには、「オンリーワンとは局所的なナンバーワンに他ならない」といった趣旨の反論がある旨の記述があって、ある意味その通りだと思うが、こういう反論のしかたは泥仕合になりがちなので、この立場はとらない。この歌を賞賛する人の多くは、「ナンバーワン」とはある決められた統一の価値基準に沿った競争によって決定される序列の中で最上位のものを指すのに対し、「オンリーワン」とはそうした序列化のための競争を指向せず、それぞれの価値基準を認め合う、といった見方をしていると思う。つまり話の方向性がちがう、ということだ。そこまではいい。
ただ、どうも気になることがある。もちろん単なる印象論だが、いろいろな人、特に若い人と話をしていると、彼らの中に、「個性」ということばを単に現状の自分を肯定するために使っている人が少なからずいるように思われてならない。「自分はこういう人間ですから」などという。そうかそういう個性なんだねと受け止めてやりたいところだが、その「こういう人間」が、たとえば「時間を守れない人間」であったり、「できてしかるべきことができない人間」であったり、「人に迷惑をかける人間」であったりすると、これはもはや個性の問題ではすまない。
大人でもこれは大きな問題だが、特に成長途中の人たちには、「個性」ということばは危険な側面を持っている。成長というのは、ある意味で現状を否定するところから始まる。もっと大きくなろう、もっとうまくなろう、もっとよくなろう、そういう努力の成果だ。もちろんその方向が他人とちがっていることはあるかもしれない。それが個性ということになるわけだが、成長過程においては、個性の入る余地がより少ないはずだ。たとえば、いくら個性といっても、足し算引き算ができなければ社会生活に大きな支障をきたすし、母国語を話せなければそもそもコミュニケーションはできない。そういう部分に「個性」の入る余地は少ない。子どもたちが「自分の個性だ」といって勉強しなくなったら、社会は崩壊してしまう。若い人たちが皆「このままでいいや」と考えていたら、社会は発展しなくなる。「個性を主張する前にまずは最低限の勉強をしろ」とか、「若いうちからそんなに小さくまとまってどうする」とかいうのはむしろ当然だ。
その意味で、「世界に一つだけの花」、中でも「もともと特別な only one」というくだりは、罪作りな側面があると思う。これ自体まちがってはいないし、この歌を作った人も歌った人もそういう意図ではないだろうが、どうも努力自体の価値を引き下げるような意味に受け取られていることが少なくないような気がする。なにしろ「もともとオンリーワン」なのだから、それ以上望むものもなかろう。そのままでいいではないか、と。
それからもう1つ。「ナンバー1にならなくてもいい」という部分について、どうも人と同じ価値基準で競争することよりも自分だけの世界を追求することのほうが価値が高いという主張にとられがちではないか、という懸念を持っているがどうだろう。最善の努力をした結果であれば、ナンバー2でもナンバー3でも、ナンバー56,389でもナンバー36,867,393でもいいではないか。競争をして敗れること自体は、恥じるべきことではない。
それに、「オンリーワン」というのは一種の極論なのであって、どんなに自分だけの価値を追求しようとしても、実際には、より小さなグループの中での競争は避けられないのだ。私たちのほとんどは、そうした競争で勝ち続けることはできないから、勝ったり負けたりする。それが当然の姿だ。年寄りめいたいいかたをすると、最近の若い人たちは平均的にみて、「負ける」ことへの耐性が上の世代よりかなり低いように思う。このことが、個性を重視する考え方となんらか関係しているのではないかというのは邪推だろうか。これもまた作者や歌手の意図するところではないだろうが、この歌が競争自体を拒否する、というか競争に「負ける」ことを拒否する考え方と相通じるところがあるように受け取られているのだとすれば、それはどうもよろしくない。
以上の話を、この歌のロジックに沿って言い換えてみる。どの花も個性を持つ「世界に一つだけの花」であることは認めよう。ただしどの花も、ちゃんと咲いていて、「みんなきれい」なのは、それぞれが「花を咲かせることだけに 一生懸命」になった結果だ。努力しなければ、咲くことすらできないから、花屋の店先のバケツに並ぶこともできない。それも含めて個性と呼ぶ考え方もあるが、それでいいのかよく考えてもらいたい。花たちは、実際には一生懸命競争している。相手は自分自身だ。それぞれの価値基準に沿って、自分なりの努力を精一杯やって、自分自身に対して恥ずかしくないからこそ、「バケツの中 誇らしげに しゃんと胸を張っている」ことができる。自分のベストを尽くして咲いたからこそ、バケツの中での一番を競うこともなく、お互いを認め合えるのだ。
まとめると、「一つだけの花」になるにも努力が必要だ、個性は咲いてから言え、ということになる。特に若い人は、ぜひ自分なりの一番きれいな花を咲かせるための努力をしてもらいたい。多少は長く生きてきた経験からすると、そのほうが楽しい。これは大小種類問わず「花」を咲かせた大人たちの多くが認めるところだろうと思う。だまされたと思って、やってみるといい。もちろん責任は持たないが。
いまさら買う人も少ないと思うが。
この歌については、他にもいろいろな意見が交わされている。
ビジネス的にはちょっとちがった視点が。
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コメント
初めまして。フランス映画の記事を自分のWeblogに書いていて迷い込んだ者す。”ナンバー1にならなくてもいいもともと特別なonly one”に悩まされているのは私たち企業人も同じです。最早鶏頭と成れど牛後と云々は死語と言って差し支えないでしょう。
投稿: オザワエイイチ | 2007/11/22 06:31