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2009/08/15

駒大GMS学部に関心のある受験生の皆さんへ

夏休みは、高校3年生にとって、進路について真剣に考える重要な機会だろうと思います。中には、進学先の候補として、私の勤める駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部(GMS学部)を考えてくださっている方もいるかもしれません。来る8月21日(金)、22日(土)はオープンキャンパスが開かれます。私も21日に模擬授業を担当する予定ですので、よろしければおいでください(この模擬授業については、ニコニコ動画で生中継する予定ですので、そちらをご覧いただくこともできるかと思います)。

大学学部からの公式の情報は、それぞれ公式サイトがありますのでそちらで見ていただくとして、ここでは少しだけ、一教員の個人的な考えを書いておきたいと思います。ちょっと長い文章ですが、がんばって読んでみてください。もし「公式見解」とちがうところがあったらそちらが優先ですので、念のため。
(山口)

(1)英語は道具。
この学部について、よく、「どんなことを学ぶのかよくわからない」という感想を持たれる方がいます。確かに、「メディア」という科目は高校までの授業にはないものですから、イメージがわきにくいでしょう。その意味で、「英語をたくさん勉強させられる学部」という点は、わかりやすいかもしれません。そのせいでしょうか、この学部を志望する方の中には、英文科のような、英語そのものを学ぶ学部や学科と似たようなものと考えている方も少なからずいるようです。

しかしそれはちがいます。GMS学部での英語は、あくまでもコミュニケーションのための道具です。それ以上でもそれ以下でもありません。「英語を習ってるなら何か英語で話してくれ」と頼まれて困った経験はありませんか?あれは英語の得意な人でも困るケースが多いと思いますが、それは、「何か」といわれても「何を」話せばいいかがわからないからです。重要なのは「英語で」話すこと自体よりも、英語で「何を」話すのか、です。話すべき内容を持っていない人は、どんなに英文法を知っていても発音がきれいでも、意味のあるコミュニケーションをすることはできません。

英語の勉強が好きな方は、その英語で何をしたいのか、考えてみてください。ただ英語を話せるようになりたいというのが目的なら、国内外の英会話学校など、適切な場所は他にたくさんあります。英語の本を読めるようになりたい、英文学について学びたいというのなら、英文科のようなところのほうがいいかもしれません。そうではなく、英語を道具として使いこなせるようになりたい、というのであれば、GMS学部の英語プログラムはなかなか面白いのではないかと思います。

(2)「好き」から入ろう。
とはいえ、自分が今何をやりたいのかなんてわからない、という人も多いと思います。高校生のころの私もそうでした。むしろ、そのほうが自然ではないか、とも思います。でも、進路は今決めなければなりません。では何をよりどころにすればいいか。「つぶしが利く」とか「就職に有利」とか、「通学に便利」とか「知り合いが行っている」とか、あるいは「楽そう」とか「偏差値的にここなら入れる」といった理由もあるかもしれません。

そうした要素で選ぶこともいちがいに否定はしませんが、私は、「自分の好きなものやこと」をベースにしてみてはどうか、と思います。好きなものに取り組むとき、人間は真剣になりますし、またやっていて面白いと感じるものです。どうせやるなら、楽しいほうがいいでしょう?

もちろん、これは「好きなことだけやっていればいい」ということを意味するわけではありません。たとえばゲームが好きだからといって、買ってもらったゲームで遊んでいるだけ、というのでは何の進歩もありませんし、そもそも持続可能でもありません。「ゲームが好き」をキーワードにして、少し広げて考えてみましょう。コンピュータゲームは、機械(ハードウェア)とソフトウェアでなりたっています。それぞれどんなしくみでできているのでしょうか。それらを作ったのはどんな会社のどんな人たちなのでしょうか。その会社は、ゲームを作る資金をどこからどのように得て、作った製品をどのように売っているのでしょうか。ゲームを作る際に守らなければならないルールにはどんなものがあって、それは誰がどのようにして作っているのでしょうか。多くの人たちがコンピュータゲームで遊ぶようになると、人や社会はどのように変わっていくのでしょうか。実にさまざまなテーマが浮かんできますが、これらはいずれも、それぞれさまざまな学問領域につながっていきます。ただ単に自分の進路を決めようという場合より、関心をもって選ぶことができるかもしれません。


(3)メディアを通して社会と人間について学ぶ。
GMS学部はその名前に「メディア」ということばが入っています。つまり「メディア」について学ぶ学部である、ということになるわけです。ここでの「メディア」は基本的に、テレビや新聞、インターネットなどのいわゆる情報メディアを指しているわけですが、それが何なのかがわかっていなければ、「メディアについて学ぶ」といわれても、それが何を意味するのかもわかりにくいでしょう。むしろ、メディアを通して社会について学ぶ、と表現したほうがわかりやすいかもしれません。これは、たとえば法学部では法律を通して社会を理解しようとする、経済学部では経済学を通して社会を理解しようとする、ということと少し似ています。ちがうのは、法学部や経済学部では基本的に法律や経済学といった単一のツールを使うのに対し、GMS学部では、メディアについて学ぶ際に、経営学、社会学、情報科学、その他さまざまな学問的アプローチを総動員してあたる、ということです。そのために、GMS学部には、さまざまな専門分野の教員が集められています。

社会について学ぶということは、社会のしくみや成り立ちだけでなく、それを構成する人間について学ぶということでもあります。前世紀から急速に発達してきた情報メディアは、近年さらにその発達のスピードを上げ、社会の中での情報の流れをよくすることによって、人間を、ひいては社会を、大きく変えつつあります。したがって、人間や人間同士のつながりや、社会がどのように動いているかについて学ぶためには、情報メディアについての適切な理解が必須といえます。上記の「自分の好きなものやこと」という観点でいえば、「人間や社会が好き」という方にとって、GMS学部は悪くない選択肢の1つではないかと思います。

「知は力」です。昔から、何かについて知っていることは、たいていの場合、知らないよりもよい結果をもたらすものでしたが、特に最近はその傾向が強まっています。よく「情報化社会」といいますが、情報化が進んで「知る」ことのメリットが増えるということは、「知らない」ことの相対的なデメリットも増えるということです。今の人たちが、昔に比べて長い間教育を受けるようになっているのもそのためです。自ら学ばないことを選択するのももちろん自由ですが、現在の社会状況の中で、それをより望ましい結果につなげることは、かつてよりもはるかに難しくなっているのではないかと思います。もちろん大学に行けばいい、というものではありません。行かなくても多くを学んでいる人もいますし、卒業しても実質的には何も学んでいなかったという人もいます。平均的には行ったほうがよい、と思いますが、結局、自分次第であるということに変わりはありません。


(4)他人事にするのはやめよう。
これは受験生や駒大生に限った話ではないのですが、若い方々と話していて、特に気になっていることがいくつかあります。以下の4点はそれについて書きます。まずいいたいのは、世の中のものごとに対して、自分とは関係ない「外の世界のこと」のようにとらえている人が少なくないようだ、ということです。確かに、社会の中ではさまざまなことが起きており、それらの中には、自分が住んでいる場所から遠く離れた場所でのできごと、自分とはまったくちがった立場や状況の人に関するものごとなど、自分との関わりを想像しにくいものも数多くあるかもしれません。

しかし、そうではありません。「人は1人では生きられない」ということばはよく、人が他人からの精神的な支えを必要とするというニュアンスで語られますが、それだけではありません。私たちの社会は、人々がただばらばらに暮らしているわけではなく、それぞれの人がそれぞれの役割を果たすことで、全体として成り立っているわけです。たとえ明示的には協力関係になくても、利害が対立していても、いろいろまわりまわって、結果的にはお互いを補いあったり助け合ったり、あるいは少なくとも影響しあったりしているわけです。それがわからない人がいるとすれば、周りを見ていないか、見ようとしないかのいずれかでしょう。社会人になるということは、そうした構造の中に飛び込んでその一員となり、より積極的に他の人たちを支えたり、影響を与えたりする側の立場になることです。

ということは、皆さんが社会の一員としてよりよく生きるためには、周りのことを知り、自分とのつながりについて考えていくことが有益であり、また必要でもあるということです。もちろん、世界のあらゆる問題を1人で抱え込む必要はありませんし抱え込むこともできませんが、知っておくこと自体にも意味がありますし、1人でもできるちょっとしたことはあるかもしれません。GMS学部は、そういうことも面白そうだなという人には向いていると思います。逆に、もしそもそも周りのことに関心がまったくない、そんなめんどくさいことはいやだという人は、GMS学部にはあまり向かないと思います。


(5)自分の限界を見極めるのは10年早い。
これは特に若い方に多くみられる特徴ではないかと思いますが、「自分はこのレベル」と自ら線引きをする人がたくさんいます。もちろん、自制的であることは社会人として必須の資質でもありますので、それを備えているのはありがたいことではありますが(自制心のまったくない人がいたら、それこそ恐ろしい)、度が過ぎるのも困ります。よく「偏差値教育の弊害」といった批判が聞かれますが、偏差値はけっこう前からあったものですから、必ずしも偏差値のせいばかりとは思えません。

どうも私には、皆さんの中に、「失敗したくない」という強烈な、恐怖にも似た感情があるように思えます。失敗は恐ろしい、失敗は恥ずかしい、失敗はとにかくいやだ、失敗するくらいなら最初からしない・・・。そういったところでしょうか。最近は世の中が進歩して、先回りしていろいろ教えてくれるサービスが充実していますから、「ナマ」の失敗に直面することが少なくなっているのかもしれませんが、これは由々しき事態です。人間の発達、社会の進歩はほぼ例外なく、数限りない失敗の中から生まれました。望んで失敗する人はいないでしょうが、失敗をいやがっていては前に進めません。特に学生の皆さんは、せっかく学校という、失敗しながら学べる場、たいていの失敗はしてもいい場が用意されているのですから、どんどん失敗していただきたいものだと思います。(この点に関してはこちらもご参考

山の上からの景色は、山を登ってみなければ見ることはできません。同じように、経験してみることで初めてわかるということが世の中にはたくさんあります。皆さんより「少しだけ」長く生きている立場の私からいわせれば、高校生の皆さんが自分の限界を見極めるのは、文字通り「10年早い」です。もちろん、限界を超えていることがかなりはっきりしているものもありますが(たとえば全国の高校野球部員が全員イチローのように大リーグで活躍するなんてことはありえません)、もうちょっとやってみたら、といいたくなる人は実にたくさんいます。スポーツをやっている人ならわかるでしょうが、全力で努力しなければ、上達は望めません。人生にも、そういう時期が必要であり、学生時代は、それに最も適した時期の1つであるということです。


(6)常識を疑う前に常識を知ろう。
「常識を疑え」とよくいわれます。これまで当然と考えられてきたことにとらわれず自由に発想し、新たなものをどんどん取り入れていくこと、やりたいようにやっていくことが価値あること、といった意味合いで使われることが多いでしょうか。確かに、世の中にはもう意味を失ってしまった古いものがたくさん残っていて、それが人を制約したり、好ましくない状態を作り出したりしているケースがたくさんあります。そういう古臭い「常識」は、どんどん変えていったほうがいいでしょう。過去にとらわれず、自由に発想し、新しいものを作り上げていくことが人間や社会の進歩にとって重要なのはいうまでもありません。

しかしちょっと待ってください。「常識」は、そもそもなぜ「常識」になったのでしょうか。「常識」とは、ごく簡単にいえば、多くの人が持っているはずの(あるいは持っているべき)ごく普通の知識や判断力のことです。多くの人が「その通りだ」と考えなければ、ある知識や判断のしかたが常識となることはありません。つまり常識は、それが常識として成立した時点では必ず、多くの人が納得して受け入れられるものであったはずです。ほぼ同じ理由で、時代に合わなくなった常識が常識のまま残り続けているとすれば、変えることのメリットよりデメリットのほうが大きいといったような理由があるかもしれません。もちろん、時代とともに社会環境は変化していきますから、どこかで常識を問い直す機会が必要になるはずです。つまり、「常識を疑え」というならば、その前提として、まず常識を知らなければならない、ということです。そもそもどんな常識があるのか、またそれはなぜ常識となっているのかを知らなければ、「疑う」ことすらできません。知ったうえで、その常識を成立させた社会環境は今どうなっているか、今その常識を変えることは妥当なのかを考えていく必要があるということです。

こんなことを書いているのも、どうも、常識を知る前に疑っているのではないかと思われる方々がしばしば見受けられるからです。これははっきりさせておきたいと思いますが、今の高校生(あるいは大学生も、ひょっとしたら大人も・・?)のうち少なからぬ一部の人たちが持っている知識や判断力は、「常識」を疑うに足る水準には必ずしも達していません。未熟であると批判しているのではありません。半端な知識でものごとを決めつけるな、といいたいだけです。世界は、皆さんが思うほど単純にはできていませんし、ネットの一部に書かれているほど陰謀に満ちているわけでもありません。どこかに「悪の組織」があって、腹黒い意志をもって日本や世界を征服しようと陰謀をめぐらせているのでもなければ、どこかの女子高生が退屈すると世界が消滅するようにできているのでもありません。皆さんには、まだ学ぶべきことがあります。もちろんそれは、大学でなければならないというものでもありませんが、まとまった時間をとって体系的にものごとを学べるという意味で、大学に行くという選択肢はその中の有力な手段の1つでしょう。GMS学部を選択していただければさらにありがたいですが。


(7)世界は面白いことに満ちている。

最後の点。私のゼミでは毎年学生を募集する際にいくつか条件を出すのですが、その中に「こんなゼミ生はいやだ」という7カ条があって、その1つがこれです。

・「なんか面白いことないスか」とかいう人

これは指示待ち、受け身の姿勢でいる人は困るという趣旨ではありますが、もう1つ、世の中に対する見方についての条件でもあります。これは若い人に限りませんが、世の中に対してやたら「退屈」している人がいます。なんらかの制約によってやりたいことができない事情でもある人ならある程度理解もできますが、単に「面白いことがない」というのであれば、ちょっといただけません。もちろん人の内心に文句をいうつもりはありませんが、少なくともGMS学部には不向きだと思います。

よく「世の中が面白くない」といったことを書いたり言ったりしている人がいますが、そういう人も、「面白くない」と書いたり言ったりすることを面白く感じているだけのかもしれません。そうやって他人や社会を否定することで自分が優位に立とうとするわけです。あるいは、世の中が自分の思い通りにならないことを不満に思っているのかもしれません。子どもが上手に使えないおもちゃを放り投げて泣くのに似ていますね。

もし本当に世の中がつまらなく見えるのだとしたら、その人にはそれが発見できないというだけのこと。勉強不足か、能力不足か、意欲不足かはわかりません。世の中にそういう人がいてはいけないとは思いませんが、巣の中でくちばしを開けてエサを持ってくる親鳥を待つだけの雛鳥のような人だけでは世の中は回りません。世界は、面白いことに満ちています。学べば学ぶほどそれが見えてきます。自分でエサ、つまり面白いことを探しに行きたい人、自分で作り出してみたい人には、GMS学部は面白い選択肢の1つではないかと思います。

オープンキャンパスでお会いできるのを楽しみにしています。

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