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2010/03/23

敗北の日

卒業式のシーズンを迎えた。以前は桜というと入学式のイメージだったが、今の東京では卒業式がちょうどいいくらいの時期になってきているように思う。今年もそうらしい。私の職場は新設の学部で、今回、つまり2010年3月に初めての卒業生を送り出すことになるのだが、これは私自身にとっても、初めて卒業生を送り出す機会であるわけで、それなりにいろいろ思うところがある。もちろん卒業生に対して晴れ晴れと「おめでとう」といいたいところだが、正直なところ若干複雑な部分もあったりするので、ひっそりとひとことだけ。

今の大学生ぐらいだともう読んだ人はそれほど多くないと思うが、山口瞳の小説に「けっぱり先生」という作品がある。1972年の作品だから、もう40年近く前だ。都下の私立中高一貫校を舞台にした学園ものだが、主人公は生徒でも先生でもなく、その学校に取材に来た新聞記者。その中で校長が主人公に、卒業式についてこんなことを言っている。

「・・・卒業式というのは、教師にとって、もっとも屈辱的な日なんですよ」

理由は想像がつくだろう。それに続く台詞を使えば、「卒業式というのは、私どもの力が足りないために、未熟なままの生徒を送り出してしまう日」だからだ。生徒たちに申し訳ない、謝りたい、と。

ええかっこしい、あるいは最近の言い方でいえば「上から目線」と映るかもしれないが、作中の校長は、このことばが心底から出た本心であることを疑う余地がない、そういった人物として描かれている。この校長は、桐朋女子中・高等学校元校長で後に理事長にもなった生江義男氏をモデルとしているらしい。個人的にはよく存じ上げないが、教育者として有名な方だったということは知っている。教育に関する著作もいくつもある。作中のエピソードは創作がかなり入っているのだろうが、学校や役職の設定、自由と自治を重んじる教育方針などは作中の校長と重なる。

この校長の気持ちはとてもよくわかる。ただ、自分には言えない、と思っていた。そもそも時代がちがうし、中高の教員と私のような大学の教員とでは職責がちがうというのもあるが、何よりも、自分はあんなにりっぱな人間じゃない、ということだ。私ごときがこんなことをいえば、まあせいぜい上から目線かある種の保身か、そんなふうにとられるだけだろう。屈辱と感じることすらおこがましいし、ふつうなら生徒に対して失礼ととられてもおかしくない。現にこの文章をここまで読んだ人の中にも、「なんだこいつえらそうに」とか思っている人がいるにちがいないと思う。

それでも、だ。いざ卒業生を送り出す側の身になってみると、やはり申し訳ない気持ちになるというのが正直な実感だ。「屈辱」というとなんらかのプライドみたいなものが前提になるようにも思われるのでいいかえると、「敗北」といったところだろうか。自分が果たすべき役割に対する敗北。自分が思い描いていた理想に対する敗北。ほぼ完膚なきまでの敗北だ。ひとことでいえば「だめだめ」。あまり関わりのなかった学生もいるし、他の教員がどう思っているかは知らないが、少なくとも私が比較的深く関与した方々に対しては、たいへん申し訳ないと思っている。どう改善したらいいか、いろいろと考えてみたりはしているのだが、過去を変えられるわけではない。まさに「敗北の日」。卒業生の皆さんの中には「自分は『失敗作』か」と憤慨される方もいるかもしれないが、それは単位や成績とは必ずしも直結していないし、そもそも敗北したのは私であって皆さんではないから誤解なきよう。しかしこれも正直に書くと、心許ないと思う方がけっこういるのは事実。

とはいえ、卒業していく皆さんに対しては、今後はもはや教員のせいにすることはできないということをはっきりいわねばなるまい。社会に出たら自分自身が問われるのであって、いいことでも悪いことでも、それは自分自身の問題ということになる。申し訳ないがそれが現実だ。よくある自己責任論をめぐる議論とは関係ない。他の誰にどんな責任があるにせよ、自分自身を自分自身にとって望ましい方向に向けてどうにかしていく責任は、第一義的、かつ最終的に、本人が負っている。この意味での「責任」は足して100%になるようなものではない。他の誰に責任があったとしても、自分自身に対して自分が負う責任が減るわけではない。

経済政策や雇用慣行が好ましくないがゆえに望む職に就けないとか給料が安いとかいうのは必ずしも本人のせいではないし、政府やら企業やらで努力すべきことはたくさんあるが、それはそれとして、置かれた環境下で何をどうするかは基本的に自分自身の問題であって、他の誰かに任せて自分は寝て待てばいいという筋合いのものではない。少なくともまっとうな社会人であるならば。まっとうな社会人となることを拒否することも自由だが、少なくともそれはこの大学や学部がめざすものとはちがうし、拒否したからといって誰かが何かをしてくれるわけでもない。

世の中には、卒業後も大学を必要以上にひきずっている人が少なからずいる。どちらかといえば難関大学あるいは名門大学とされる大学の出身者に多いような気がするが、おそらく気のせいではないだろう。周囲がついそう扱ってしまうからかもしれない。自分の優れたところを大学のおかげと思う人と、自分の至らないところを大学の名汚しと思う人とがいるように思うが、両者はコインの表裏のようなものだ。卒業してしまえば大学は過去でしかない。大学で何を学ぶかは重要だが、あえて言い切ってしまえば、その後何をやるかの方がずっと重要だ。大学の名に呪縛されたままその後の人生を送るのは不幸なことだと思う。本人にとっても、大学にとっても。

幸か不幸か、私の勤める大学は偏差値からみればだいたいまんなかへんであっていわゆる「難関大学」ではないし、一部の特殊な領域を除いて「名門大学」とされているわけでもない。その一般的なインプリケーションはともかく、上記の観点からみると、これはむしろいいことかもしれない。いいほうにも悪いほうにも、大学の名を意識せずにすむからだ。教員としての私はまんなかへんどころか「だめだめ」だと思うが、「申し訳ない」を棚に上げていえば、似たような考えでいてくれるとありがたい。卒業生の皆さんに対して大学ができたことはさほど大きくないだろうし、また私ができたことはほんのわずかしかない。私の場合は負の影響も与えたかもしれない。だから皆さんが今後何か成し遂げることがあったとしたら、それを大学のおかげといわれずにすむし、仮にうまくいかないことがあったとしても、いい大学出てるのにといわれることもない。皆さんの今後は、皆さんが今後何をどうするかで決まるし、皆さん自身が評価される。

「けっぱり先生」の「けっぱり」は、東北弁の「けっぱる」から来ている。「がんばる」ぐらいの意味らしい。作中の校長ががんばる人であるというほかに、もう1つ意味がある。その校長の下で働く教師の台詞だが、著者自身の考えでもあるようだ。

「教師というのは、生徒に対して、ケッパレ、ケッパレ、頑張れ頑張れというだけで充分だと思っています。それが教師じゃないんでしょうか」

もちろん教えるべきことを教えるのは必要で、特に大学教員はそうなんだが、それはいうまでもなく、ということだろう。教えることがちゃんとできていないのに「がんばれ」というだけでいいとも思わないが、やっちゃいけないということもないだろうし。「がんばる」については近年とかく風当たりが強いが、あまり萎縮してしまうのもどうかと思う。もちろん何かを強要するべきではないし、時には休んだりさぼったりすることもアリだろうが、基本的に努力に対して肯定的であることを悪いとは思わない。あくまで自分の至らなさを全部棚に上げたうえでということになるが、少なくとも私は、自分より若い人たちに「がんばれ」という人でありたい。もちろん自分も自分なりにがんばる。「敗北」から逃れることはそう簡単ではないだろうが、少しでもましな敗北のしかたというものがあろうから。手本にはならないだろうが、反面教師ぐらいにはなれるのではないかと思うし、できるなら「あんなやつでもこの程度はできるんだから」ぐらいのところは見せたい。

ともあれ、皆さんの将来が皆さんの今後の行動にかかっているとすれば、私の「敗北」もまだ現時点では仮のものということになろう。皆さんががんばって何かを達成できたならば、あるいは自分で納得がいく結果だったならば、それは皆さんにとって勝利の日であり、結局お役に立てなかったことが確定した私にとっては「本当の敗北の日」となる。そういう日が迎えられるよう、ぜひがんばってもらいたい。卒業おめでとう。健闘を祈る。

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