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2011/08/12

「祈り」の季節

「激動の年」という表現がある。大きなできごとがあった年という意味だが、たいていは毎年、年末になると「今年は激動の年だった」といわれるのが常なので、いつもならまあ割り引いて考えればいい。しかし今年は、どう低めに見積もっても「激動の年」という評価があてはまるという以外にないくらい、いろいろなことが起きた。

といってもまだ8月だから、これから今年の後半にもまだまだいろいろなことが起きるのかもしれないが、8月というのはなぜか、毎日忙しくすごしていても、ちょっと立ち止まってみたくなる季節だ。学生であればなおさらそうだろうし、そうあってほしい。せっかくの夏休みなのだし。

というわけで、そういう「立ち止まり」のきっかけに少しでもなればと思うことを書いてみる。

先日、ネットのどこかで、今年起きたさまざまなできごとを羅列したページを見つけた。今探してもうまく見つからなかったのだが、似たものは検索すればたくさん見つかるだろう。とにかく圧巻のリストだった。いわゆる天災だけみても、2月のニュージーランド大地震に引き続いて3月には東日本大震災が起きた。それらの影に隠れて目立たないが、1月には鹿児島で新燃岳が噴火したし、7月下旬には新潟・福島で豪雨があった。3月10日の雲南や3月26日のミャンマーでの地震、アメリカ南部での5月の大洪水など、海外でも大きな災害が起きている。

事故にしても、東日本大震災によって引き起こされた福島第一原発の事故はいうに及ばず、7月の中国高速鉄道での事故など相当大きなものがあったし、事件に至っては挙げ切れないほどあちこちでさまざまなことが起きている。戦火の絶えない国も、新たに内戦状態に陥った国もある。今年はあと5ヶ月弱残っているわけだが、いったいどこまでこのリストは伸びるのだろうかと不安になる人も多いだろう。

まちがいなく今年は、いつにも増して多くの人が苦しんだり悲しんだりした年として記憶されることになるはずだ。もともと8月はいわゆるお盆があって、終戦記念日も原爆の日もあるから、ふだんと比べて亡くなった人たち、苦しんだり悲しんだりした人たちのことを考える機会が多い時期といえるわけだが、今年は震災後の初盆にあたるし、復興どころかまだ非常時対応すら満足にできていない状況だし、そのうえ原発事故の収束がまだまだな状況で原爆の日を迎えたりしているのだから、なおさらだ。なぜこんなことになってしまったのか。何かいい方法はないのか。いろいろ考えたり、議論してみたりするといいと思う。その意味で夏は「考える季節」だ。

議論してみれば、人によって意見がどれだけちがうか、いかに人を説得するのが難しいか、思い知らされる。自分が当然の知識と思っていることを知らなかったり、事実でないと思ったりしている人がたくさんいる。逆に、自分の知らないことを知っている人もたくさんいる。議論がその溝を埋めてくれる、とは限らない。まじめに考える人であればあるほど、自分の意見に自信をもっているだろうし、自分が相手を説得することに価値を見出しがちになるだろう。議論が平行線に終わることも多いはずだ。議論と口げんかの区別がついていない人も少なからずいる。

一方、反原発など、さまざまな要求を掲げ、デモ行進や集会など、具体的な行動に出る人もいる。かつては日本でも安保闘争や学生運動など、大衆的な盛り上がりをもった社会運動があったりしたものの、このところそうした動きはあまりみられなかった。「おとなしい国民性」が定評になっていたわけだが、ここへきて、かつてほどではないものの、再び「活動期」に入ったのかもしれない。最近はネットを使うことで、ある程度の人数であれば比較的容易に集まることが可能となった。特に今は、お祭りやイベント、式典などで人が集まる機会も多い。夏休みで比較的自由に動ける人がたくさんいるということもあるだろう。その意味で夏は「行動する季節」でもある。

海外ではもっと激しい「行動」も多くみられる。今年の初めには、チュニジアやエジプトで、民衆の力が原動力となって長期政権が倒れた。その他のイスラム圏諸国でも、政権をゆるがす動きが起きている。一方ヨーロッパでは、ここへきて主に若年層や移民などの相対的に恵まれていない層の人々が、社会への不満をデモや暴動、あるいはテロといったかたちで「爆発」させるようなできごとが続いて起きているようにもみえる。きっかけや背景はさまざまだが、なんらかの強い「思い」がなんらかのきっかけで「行動」にあらわれた、といった印象は似ている。日本での「行動」も、もちろん暴動やテロと並べて論じるのは不適切だとは思うが、これまで通用してきた考え、やり方では納得しない人々が出てきた、という点では似た要素がないでもない。全体として社会が荒っぽい方向に向かいつつあるというくくり方はかなり乱暴だと自覚するが、まったくずれた話だとまでは思わない。

ものいう国民は民主主義の根幹だから、意見を表明すること自体は歓迎すべきことではあろう。歴史的にみれば、西欧では民主主義が暴力によって勝ち取られたというのも事実だ。しかし、少なくとも日本では、選挙での投票率などからみて、特に若年層の間で社会への関心が高まっている状況にはあまりみえない。ひょっとして、政治のような正規のプロセスをまどろっこしいもの、信頼できないものと感じているのだろうか。確かに現在の政治のしくみはかなりいろいろな問題を含んでいるから、そういう考え方もわからないでもないが、だからといって、直接行動だけで変えられることは必ずしも多くはないし、弊害もある。ヨーロッパのような大規模な暴動が日本で起きるとは考えにくいが、えてしてこういうとき、考え方のちがいによる対立が激しくなる方向に進みがちなので気がかりだ。

個人的には、そうした「声を上げる」ことをしない、あるいはできずにいる人たちにシンパシーを感じる。声を挙げない人にも、さまざまな理由がありうる。単純に強い動機をもっていないのかもしれないし、社会的立場から許されない場合もあるかもしれない。あるいは、自らの境遇の過酷さに打ちひしがれてしまって、とてもそんなことまで気が回らないという人もいるはずだ。決して人数は少なくないであろうそうした人たちにとって、今は「祈りの季節」なのではないかと思う。

「祈る」という行為は、必ずしも宗教のようなものを前提にするというわけではない。むしろあまり宗教色の強くない多くの日本人にとっては、神などの超越者に対して祈るというよりは、むしろ何かの「願い」をこめ、あるいは誰か身近な人、身近だった人などを思って祈る、といったかたちの方が一般的なのではないだろうか。寺や神社、教会などに行く必要もない。1人で、静かに、祈る。そういう意味での「祈り」が、今とても重要ではないか、と思う。「考える」人たちにも、「行動する」人たちにも、こうした時間が必要なのではなかろうか。

というのも、祈るとき、人は最も大事なものと向き合おうとするように思われるからだ。議論するとき、人はえてして、相手を論破してやろうと、さまざまなテクニックを弄する。極論を展開したり、本筋と関係ない相手の弱点を突いたりして、相手を沈黙させようとしたり。また、集まって声をあげるときには、大きな声、強い主張で相手を圧倒しようとする。しかしそれらはたいてい、最も大事なものではない。

たとえば、今日本で大きなテーマとなっている原発や再生可能エネルギーの問題にしても、議論の場、行動の場では、どうしても具体的な方針である原発推進や原発廃棄、あるいは再生可能エネルギー法案成立といった主張が前面に立つ。しかしこれらは本来、「手段」であって「目的」ではない。では「目的」は何かというと、いろいろありうるとは思うが、つきつめれば、大切に思う人の幸せということになるのではないか。その「目的」へ向かおうとする道、つまり「手段」は、いろいろありうる。

人々が対立し、争うのはこの「手段」の部分だ。それぞれの「手段」にはメリット、デメリットがあり、それに対する評価もちがう。たとえば脱原発は、事故等による放射線被曝リスクや被曝への恐れからくる心理的ストレスといった問題への有効な対処手段ではあるが、急激に進めれば電力不足を生じるし、長期的にもコスト上昇といったデメリットがある。逆の手段ならそれはちょうどその逆だ。それが争点でどちらかをとらねばならないなら、あとは戦うしかないが、それでは合意自体難しいし、妥協してなんらか決着しても不満が残る。これが現在私たちが直面している状況だ。

これに対し、人が大事な人のことを思って祈るとき、そこで思い浮かべるのは、原発をどうするかといった方針ではなく、その大事な人に元気でいてもらいたい、笑っていてもらいたいといったイメージなのではないか。ここに「祈る」ことの大きな効用の1つがあるように思う。つまり、「祈る」ことで、目の前の「手段」にとらわれすぎることなく、最も大事な「目的」に立ち返る機会をもつことができるようになるのではないか。

一足飛びに結論に飛びついてはならない。それはものごとのある一面をとらえているかもしれないが、また別の面では的外れかもしれない。今見えているものだけがすべてではないし、今よいと思われているものだけがよいものではない。こだわりは考えを狭くし、合意を難しくする。対立する意見の人を、すぐ愚かと断じたり悪人と決めつけたりしても、「目的」はかなわない。目の前の対立に目を奪われず、ものごとの「本筋」に立ち返らなければならない。

そんなとき、静かに皆で祈ってみてはどうか。亡くなった人、苦しんでいる人、悲しんでいる人、不安がっている人、守ってあげたい人。そういう、声を上げられないかもしれない大事な人たちのことを思って、祈る。この点では、多くの人が一致できるのではないだろうか。具体的な策を論じるのは、それからでも遅くはない。少なくとも重要な変更を伴うものであれば。ちょうど盆休みにあたる今は、そうやって「祈る」のに最も適した時期なのではないかと思う。


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